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ペーパーテスト重視から人物本位へ日頃の業務が昇任への評価につながらない!?統計の基本を知らない「専門家」が虐待を解決できる?

筆者はこの記事を書いているときは就職活動をしているのですが、筆者の親は筆者が公務員になることを要求しています。そこで、公務員になるということがどういうことなのかを考えるきっかけになる本に出会ったので、この本について紹介していきたいと思います。

 

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p.4~p.9——————————————————————————————————

プロローグ 公務員という世界

 公(おおやけ)のために務める人——。

 これが公務員だ。ひとくちに公務員といってもさまざまな仕事がある。そしてさまざまな人がいる。

 ”公(おおやけ)”のために”務(つとめる)”者として、国や地域社会のため、みずからのことはそっちのけ、強い使命感を持って働く人もいる。だが一方で、けっして潰れることはない会社への就職という意識で、ひたすらお役所にしがみつく人……と、その生態はさまざまだ。

 とはいえ、どちらも公務員の実体であることはたしかなところだ。

 いまに限らず、公務員の風当たりは厳しい。少し古いいい方で「お役人」と呼ばれる公務員は、”役(偉い人という意味で)に就く人”、もしくは”(国民や住民の)役に立つ人”である。

 

 なので批判の矢面に立たされるのは、公務員の宿命といってもいいだろう。ある公務員はいう。

 

「公務員が世の中で持て囃される時代、社会というのはけっしていい時代や社会ではない。公務員とは究極の社会の匿名の黒子役。国民や住民の目に止まらない時代や社会こそ、安定した時代であり、社会である」

 

 公務員には、大きくわけて国の仕事をする国家公務員と地方自治体の仕事をする地方公務員だ。

 国家、地方、どちらの公務員でも、公務員が称賛もしくは批判の矢面に立たされる場面とは、時代や社会が安定していないときである。

 では逆に時代や社会が安定しているときはどうか。公務員という職業に誰も全く注目していない社会や時代である。言い換えると「公務員にとって活躍の場がない」時代、すなわち民間が成熟している時代だ。

 それでも学生の就職希望では公務員の人気は高い。一度、民間に就職した人でも公務員への転職を希望する向きも数多い。

 

「公務員は、私企業と違い、営利、収益性を考えず、広い視野で仕事ができるのが魅力。また、人事システム上、男女の性差はまったくない」

 

 民間から公務員となったある女性公務員の言葉である。

 公務員への入り口は数多い。共通しているのは”全てにおいて公平かつ公正”、すなわち公平無私であるということに尽きる。

 だが、それも昔語りとなりつつあるようだ。

 

ペーパーテスト重視から人物本位へ

 かつて公務員採用試験といえば、基本的には公務員の採用試験は最初の筆記試験に合格できるか否かにかかっていた。

 民間企業とは異なり、公務員採用試験時、その筆記試験は採用を左右する絶対的な基準だった。なぜ一片の筆記試験で採用を決めたのか。

 言葉では言い表せないなにか——を評価してくれる民間とは異なり、だれが見ても客観的な基準での選抜を求められる公務員の場合、やはりペーパーテストを軸とした試験にならざるを得なかったためだ。ペーパーテストなら、いつ、誰が、どのように試験を行おうとも公平性が確保されているという事情、そこに尽きる。性別による差別もなければそれまでの経歴を問われることもない。

 このペーパーテストの点数が高い人が筆記試験の合格者となり、そして面接試験時にもこの筆記試験合格の成績順位、つまり席次は採用される官庁や地方自治体によって多少の違いはあれど、大きく反映されたものだ。

 極論すれば、採用時の筆記試験にギリギリの成績で合格、面接試験に進み、その面接試験結果で上位合格……ということもなかった。

 だが、こうした傾向は、最近では崩れてきた。

 

「ペーパーテストでは測れない人間性を見て採用しなければ、この変化激しい時代に官界でも対応できない。中央官庁以上に、地方行政の世界ほどこの傾向は顕著ではないか」(40代・総務省勤務)

 

 とはいえ、かつて公務員独特の採用時からの”客観的な基準での評価”は、今なお続いているというのはお役人社会では常識だ。

 

日頃の業務が昇任への評価につながらない!?

 たとえばある地方自治体では、係長以上の職階に就くには「係長昇任試験」「管理職登用試験」を受験、これに合格しなければ昇任できない。

 くわえてこの試験合格後に行われる研修でも、ペーパーテストなどで席次がつけられ、同じ昇任者でも上席・下席と、これまた席次わけがある。つまりおなじ係長でも誰が席次が上の主任、係長と明確化されているということだ。

 とりわけ警察や消防といった制服職種ほどこうした傾向が顕著である。

 その警察官を例にとってみよう。高校もしくは大学卒業後、警察官として都道府県警察に入職すれば、最初、「巡査」という階級が与えられる。このひとつ上の階級が巡査部長だ(職名である巡査長は考えないものとする)。この巡査部長という階級に昇任するには「巡査部長昇任試験」という筆記試験を軸とした試験に合格しない限り、昇任することはない。

 そうするとそういうことが起きるのか。日常の業務、すなわち仕事ができなくても、筆記試験の点数を高くはじき出せる人が昇任していくということになる。

 ひいては昇任したい、偉くなりたい人は日常の仕事に力を入れるよりも、昇任試験の準備に力を入れた方が、将来の栄達の可能性が高くなるというわけだ。

 なかには「与えられたシゴトをこなし、住民が喜ぶ顔がみれればそれでよし」という公務員もすくなくない。

 しかしこうした考えを持つ公務員は、たとえシゴトができようとも栄達の道は厳しい。そもそも人事考課に「住民ウケがいい」という基準が設けられていないからだ。

 かつてに比べて本物本位で評価する傾向が高まってきた公務員社会だが、それでも何事も、全てにおいて公平で客観的な……という基準が、よくも悪しくも、悪しくもよくも蔓延っているという。

 

「入り口こそ人物本位での採用試験になりつつあるが、実務ではまだまだ筆記試験重視の傾向は変わらない。むしろ人物本位の採用試験になって以降、『口先だけ』『言い訳するが手は動かさない』公務員が増えてきた。民間と違い、カネになる、ならない関係なく、住民に尽くすタイプの公務員が減ってきた気がする」(40代、大阪府職員)

 

 官で働く公務員は、時にはコスト面を度外視してでも市民のためになることならばそこにカネとヒトを割くという考え方をしなければならない。

 公務員からこの視点がなくなると、過疎地の天災対策は疎かとなり、都市部ほど優遇される偏りのある社会になってしまう。

 

「時には住民、その住民の代表である政治に嫌われてでも”官”として正しいことを伝えるのも公務員の職責。ここ十年来の”人物本位”採用以降の公務員は、ともすれば住民や政治に寄り添い、客観的な視点が疎かになっている傾向がみられる。もっともそれも時代なのかもしれないが……」(前出・40代、大阪府職員)

 

 たとえ自らが反対していても、一度、住民の代表である議会で決まったならば、その決定事項には全力で取り組むのが公務員である。そんな公務員とは、いったいどんな仕事をして、どんな人がいるのだろうか。その仕事と正体を明らかにするのが本書である。

 

 

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筆記試験合格者で基本的に構成された公務員が、3人に1人しか日本語が読めない国民に対する福祉が真っ当にできるのでしょうか?腐敗の温床となっていても、気付ける人はどのくらいいるのでしょうか?ここでは別の視点として、大人気作家の橘玲氏の著作を引いてみたいと思います。

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p.69~p.71——————————————————————————————————

統計の基本を知らない「専門家」が虐待を解決できる?

 前回のコラムで「あらゆる犯罪統計で幼児への虐待は義父と連れ子の間で起こりやすく、両親ともに実親だった場合に比べ、虐待数で10倍程度、幼い子供が殺される危険性は数百倍とされている」と書いたところ、一部で「非科学的」「似非科学」との批判がありました。

 その根拠は厚労省所轄の社会保障審議会専門委員会による報告(「子ども虐待による死亡事例等の検証結果について」第13次報告)で、「主たる加害者」の項目には「平成27年度に把握した心中以外の虐待死事例では、『実母』が26人(50.0%)と最も多く、次いで『実父』が12人(23.1%)であった」と書かれています。主たる加害者が実父なら、「継子のリスクがはるかに大きい」ということはできません。

 私が参照したのは北米のデータで、進化心理学ではこれを、「長い進化の過程において、人が血の繋がらない子供よりも血縁のある子どもを選り好みするようになったからだ」と説明します。これは極めて強力なエビデンス(証拠)で、1980年代に提示されたときは(当然のことながら)強い反発を受けましたが、現在に至るまで反証されていません。

 厚労省の専門委員会の報告書が述べるように、実父が「主たる加害者」であればこの主張は真っ向から否定されます。「日本人だけが特別で、世界とは全く別の進化を遂げてきた」ということになりますが、はたしてそんなことがあるのでしょうか。

 ここで、1000人からなる集団Aと、10人からなる集団Bを考えてみましょう。統計調査によると、集団Aでは虐待死が10件起こり、集団Bでは一件でした。これは10倍もの違いですから、「主たる加害者」は集団Aとなります。

 さて、これのどこがおかしいかわかるでしょうか。

 統計学の初歩の初歩ですが、集団の大きさが異なる場合、それぞれを同じ大きさにしてから比較しなければなりません。これが「標準化」で、1000人あたりで見るならば、集団Bの虐待死は1000件になって、集団A(10件)よりはるかに多いことがわかります(「虐待死の割合は集団Aが1%、集団Bは10%」といっても同じです)。

 具体的なデータを見ると、「心中以外の虐待死」の3歳以上では、実父による加虐が6件に対して、「実母の交際相手」を含む血縁関係のない男性による加害も(疑義事例も入れて)計6件で、実数でも同じになっています。日本では実子と継子の割合は公表されていないようですが、血の繋がらない男性と暮らす子供より、実父と暮らす子供の人数のほうがはるかに多いことは明らかです。この2つの集団を標準化して比較すれば、日本においても、「虐待は義父と連れ子の間で起こりやすい」のはまちがいありません。

 不思議なのは「専門」委員会が、小学校高学年でも知っていそうな統計の基本を無視して虐待の「主たる加害者」を特定していることです。

 ゴミを入れればゴミしか出てこないのは当たり前です。データの分析が間違っているのに、どうやって虐待という深刻な問題を解決できるというのでしょうか。

 厚労省の「統計不正」が批判されていますが、「専門家」ですらこの有様では問題は遥かに深刻です。一省庁をバッシングすれば済むような話ではなく、この国における「専門」の意味から問い直す必要がありそうです。