Master3’s blog

LaTeXやExcelVBAなどの作例集

研究室を二回も変えてしまいました……

気が弱すぎて生きていける気がしません。

 筆者は高専から大学の3年制に編入し、半年後に研究室に所属することになりました。高専でも卒業研究があったので、研究室選びがどれほど重要かはわかっていました。しかし他の人に比べて、受けた授業の数も少なかったので、教授の人間性についてはあまり知ることができていません。そこですべての研究室に見学に行き、しつこく質問しまくって煙たがられることもありました。成績が良かったことにより、希望の研究室に配属されることができました。

 無事に配属されて学部4年生になった頃、学年ごとに集まってするゼミがありました。筆者の同期は寝坊グセがあり、たまにゼミに来ないことがありました。同期は彼しかいなかったので、私と教授の二人きりでゼミをすることになってしまいました。来ないものは仕方がないので、普通の調子でゼミをしていたときのことです。私が作業に入ってしばらくしたとき、急に後ろでものすごい音がしました。あまりに突然のことだったので、教授がコケたのかと思い、「大丈夫ですか?」と声をかけそうになりました。しかし、教授の様子が明らかにおかしいことにすんでのところで気付きました。

 なんと、教授はコケたのでもなんでもなく、私の同期の座る椅子を思いっきり蹴っていたのです。教授は憤懣やる方ない様子で、小さな声でブツブツとなにかを言っています。すると、

「あれ、この上着って(筆者)君のだった?」

と訊いてきました。それは同期の椅子にかかっていた同期の上着でした。筆者が違うと答えると、教授は安心した様子でした。筆者は完全に怯えきっていましたが、ゼミ中は筆者に対しては普通に接してくれたので、このときは僕が怯えただけでした。

 このことを研究室の先輩に話すと、非常に後輩思いの先輩はいたく同情してくれました。先輩も日頃から教授に当たり散らされていたのです。そこで先輩は、学生相談室に相談しに行くことを提案してくれました。私もこの研究室が普通じゃないことを感じていたので、我々はそこに相談しに行くことにしました。ですがその前に、学科長のところに相談しに行きました。学科長は、我々の話を聞いたあと、その教授は君たちに期待をしているからそのようなきつい言い方になってしまうだけではないかと言いました。また、研究室を変えることは可能かどうか尋ねると、学部生は定員があり、成績や話し合いによって配属を決めているので、配属後に変えると不平等になってしまう。定員に空きがある研究室にしか移動できないと言われました。しかし空きがある研究室はブラックの噂があるところしかなく、4年生にまでなって授業も全て取り終わっているのにもかかわらず卒業を断念してしまうような学生がでるような研究室だったので、この時は諦めました。

 私の所属していた研究室の研究分野は、高専では習わない分野でした。しかもこの分野は大学の学部のときに大変難関な授業があるのでみんな猛勉強するらしいのですが、筆者は編入生であり、この授業の単位は高専の関係ない単位で読み替えて授業を受けずにパスされてしまっていました。なので、イチから勉強してみんなに追いつく必要があったのです。そのような事情もあり、筆者は大学院へ進学する予定だったのですが、他大学の大学院へ進学するための勉強などできませんでした。

 またあるとき、研究のことで教授に質問しに行く用事がありました。コンピューターに読み込まれる対称性の順で指定するという作業が非常に複雑で、仲間内でも同じような作業をしている人がいなかったので、この作業の詳細について訊きたいと思っていました。教授の部屋に入ってから来意を伝え、分子の模型を使って対称性の順番を確認しました。しかし、線形結合の指定についてはこの順番通りに記述していないことを伝えたときのことです。

「そんなんでうまくいくわけねえだろ!!!!」

突然教授が怒鳴ったのです。そして親の敵でも見るような眼で私を睨みつけました。少なくとも私の目にはそう映りました。その瞬間頭の中が真っ白になってしまいました。何とかやり直すことを伝えると、教授の態度はまるで何事もなかったようにもとに戻りました。その時はそれで終わったのですが、それ以来、教授と話すだけで足の震えが止まらなくなってしまいました。

 学科長は、大学院に進学すると、学部のときのような定員はないので研究室が変えられるようになることを教えてくれました。年末まで待ってから移動先の研究室の教授に許可をもらいに行くように言われていた気がしたので、1月に入ってからそのようにしました。するとその教授はその旨を私の研究室の教授に問い合わせました。そこで私は呼び出され、研究室を変える旨を震える小さな声で教授に伝えました。理由は、自分が怒鳴られることに慣れておらず、教授が怖くなってしまったからだと伝えました。すると教授は

「それはこちらにも改善すべきところもある」

と言ってくれ、研究室を変えることを承諾してくれました。しかし、学科長の部屋を訪れると、なんで急に移動先の教授に言いに言ったんだとすごい剣幕で詰め寄ってくるではありませんか。年末以降に許可を貰いに行くように学科長に言われていたように思っていたことを伝えると、

「そんなこといってねえよ!!!!」

とまたしても怒鳴られてしまいました。学科長は年末ではなく年度末、つまり3月以降に行けと言っていたつもりだったようです。このときばかりは筆者も涙がポロポロこぼれました……

 

そうして大学院に入って研究室を変えました。次の教授は温厚な方を選びました。この研究室は実験の操作が結構難しく、大学の実験の科目も単位認定で実際には実験せずにパスしてしまっていたこともあり、実験の操作はすっかり忘れてしまっていました。そこで先輩に教わりながらやるしかないのですが、二人いた先輩は、一人は就活で殆ど不在、もうひとりはクールな感じの先輩でした。人気の研究室なだけあり、学生も優秀な人達ばかりが集まってきています。しかしここでも、持ち前の気の弱さが発揮されてしまうのです。実験について操作が覚えられなくて同じことを訊きに行くと、

「これこの前も教えたよね?」

と言われてしまいます。ちゃんと何度でも教えてもらえるのですが、この一言が脳内で何度も何度も再生されるのです。また、これも筆者が完全に悪いのですが、ノートに書く手間を惜しんで先輩の説明を無断で録画・録音して注意されるといったこともありました。そういった小さなことが積み重なり、ちょうどこの時期にコロナ禍が勃発したこともあって、筆者は次第に研究室に足を運ばなくなっていきました。

 しかし、半年もすぎるとそうはいかなくなり、先生から実験の催促のメールが来ました。しばらく研究室を留守にしていたこともあって、先輩は恐ろしい存在となってしまっていました。そこで、先輩と馬が合わないということにして研究室を再び変えたい旨を伝えました。

 ここまでくると、先生方も、読者のみなさんも呆れ果てていると思います。こうして、筆者は卒業が遅れ、修士の三年:Master3となったのでした。このとき選んだ先生はちょうど新任の先生で、自分と新しく入ってくる学部の3年が第一号でした。奇跡のタイミングといっても過言ではありません。

 

ここで注意しておかなければならないのは、高専から大学に編入した人すべてがこのような運命をたどるわけではありません。大学教授の認識として高専生は非常に優秀である、またそのような優秀な人が多いのもまた事実です。筆者はその中でも運が悪く、また何より意識が低く無能なことが災いしてこのようなことになってしまいました。しかし、研究室は必ずやりたい研究の内容によって選ぶべきだというのは疑問です。自分の身の丈にあった研究室を選ぶべきです。また、このようなノマドジー的な生き方を、私は否定したくありません。なぜなら、最初の研究室で取り組んだ研究も、今の自分の糧になっているし、学費の迷惑をかけたとは言え唯一無二の存在になれたと思っています。ここで大人気作家の橘玲の以下の著作を引きたいと思います。

[http://

:title]p.234-238

日本人は「ひ弱なラン」

 セロトニン運搬遺伝子のタイプで、日本人はSS型が3人に2人(65.3%)を占め、SL型が30.7%、LL型はわずか4%しかいないという事実は、L型の遺伝子の多いアフリカ系やヨーロッパ系とは文化的・歴史的にだけでなく生得的に異なっている可能性を示している。こうした遺伝的な偏りは文化(東アジアの稲作社会)への適応から生じ、S型の遺伝子をもつ者が増えることによって、彼らに適したより「高コンテクスト」な文化がつくられていった。こうした遺伝と文化のフィードバック効果によって、L型の遺伝子は日本社会から急速に淘汰されていった。——日本人は世界でもっとも「自己家畜化」が進んだ民族なのだ。

 エレーナ・フォックスは、日本人の大半がもっているS型のセロトニン運搬遺伝子は「不安感を強めるうつ病の遺伝子」ではなく、ポジティブな刺激に対しても、ネガティブな刺激に対しても強い感受性をもつ遺伝子だという。

 現代の進化論は、これを「ラン」と「タンポポ」の比喩で説明する。

 タンポポはストレスのある環境でもたくましく育つが、その花は小さく目立たない。その一方でランは、ストレスを加えられるとすぐに枯れてしまうものの、最適な環境では大輪の花を咲かせる。

 そう考えれば、「利己的な遺伝子」がこの2種類の遺伝子型を残した理由がわかる。

 環境が安定していればランのような美しい花を咲かせるほうが繁殖に有利だが、不安定な環境で強いストレスがかかるならばタンポポしか生き残ることができない。日本人は遺伝的に、特定の環境では大きな幸福感を得ることができるものの、それ以外の環境ではあっさり枯れてしまう「ひ弱なラン」なのだ。

 不安感の強い日本人は環境を変えることを過度に恐れ、ムラ的な組織(タコツボ)のなかに閉じこもって安心しようとする。グローバルスタンダードと大きく異る年功序列・終身雇用の「日本的雇用」が、ガラパゴスのように日本でだけ残っているのはこれが理由だろう。

 だがそれによって、日本人は「会社」というムラ社会に、あるいは「家庭」という閉鎖空間に閉じ込められてしまった。さまざまな国際比較調査で、日本のサラリーマンは世界で一番会社を憎んでおり、仕事への忠誠心が低いことが繰り返し示されているが、皮肉なことにそこでしか生きていくことができないのだ。

 

咲ける場所に移りなさい

 東アジア系は知能は高いが不安感が強く、目先の利益よりも将来のことを心配する。「知能」と「意志力(先延ばしのちから)」のこの組み合わせによって、アメリカ社会では短期間で目を見張るような経済的成功を手にするようになった。医師や弁護士など専門職として成功できるのは、たんに知能が高いだけではなく、「低コンテクスト」が当たり前の社会で、患者や顧客の微妙な表情を読んで的確な応答ができる「高コンテクスト」な能力が優位性をもつからだろう。

 しかしその一方で、生得的な敏感さは、変化やリスクを極端に嫌い、お互いがお互いを気にする「高コンテクスト」の社会を作り上げてしまう。複雑な尊敬語や謙譲語で相手の立場を忖度しなければならない日本社会はその典型で、誰もが感じる生きづらさは、私たちが暮らしているのがタコツボ型の「道徳警察社会」だからだ。

 『置かれた場所で咲きなさい』と『嫌われる勇気』がミリオンセラーになったことは、そんな日本社会を象徴している。

「高コンテクスト」の共同体に過剰適応した日本人は、世間の評判を気にし、他人から嫌われることを極端に恐れているが、自分がもっと高い評価を得られる場所に自由に移っていくことはできない。会社の上司や同僚、部下を選択することはできず、「運命」として受け入れるしかない。——これは専業主婦も同じで、子どもを抱えて離婚すれば、母子家庭として日本社会の最貧困層に落ちることを覚悟するしかない。

 他人や世間を変えることができなければ、自分が「嫌われる勇気」をもつ以外ない。いまいる場所から動くことができないなら、「置かれた場所で咲く」ほかはない。だが残酷なことに、「ひ弱なラン」はどこでも花を咲かせられるようには遺伝的に設計されていない。幸福になりたければ、「咲ける場所に移る」ほかないのだ。

 日本人の不幸は、遺伝的にストレスに弱いにもかかわらず、文化的に高ストレスの環境をつくってしまうことにある。そんなムラ社会の閉塞感のなかで、本来はランとして美しい花を咲かせるべき個人が次々と枯れていく。

 だがこれは、絶望的な話というわけではない。自分に適した環境に恵まれさえすれば、敏感なS型は(鈍感な)L型よりはるかに大きな喜びを手にすることができるのだから。

 そのことを前提としたうえで、「ひ弱なラン」としてどのような人生の選択をするのかが、すべての日本人(東アジア人)に与えられた課題なのだろう。

 もちろん、どのような人生を選ぼうとあなたの自由だ。

 

 

 

あるとき、最初の研究室のお世話になった先輩から電話がありました。先輩は、先輩の修論の指導をほかの教員に変えてもらうよう申し出ようか迷っていたのです。筆者は迷わずに、そう申し出るように説得し、みずからもその場に立ち会って証言しました。ある本で、

『大学のハラスメント委員会的なところに相談に乗ってもらおうとしたが、そのハラスメント委員会的なところの相談員の名前に、指導教員の名前があった』

この本のp.24に書いてあるのを読みました。

[http://

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この本の人に比べれば、大学側が我々のために措置を講じ、機能してくれた私たちの大学は良心的でした。この点でも恵まれていたと思います。

 

最後までお読みくださりありがとうございました