Master3’s blog

LaTeXやExcelVBAなどの作例集

わたしの排尿恐怖症 残酷な友情空間、冷淡な貨幣空間

男性用小便器で排尿するとき、そのあまりの無防備さに前立腺を緩めることができない。筆者が長年苦しめられてきた症状です。個室に入ってしまえば問題ないので、日常生活には支障はありません。しかし、毎回毎回個室にはいる友人がいたら、不審に思う人は多いのではないでしょうか。

この症状は、そばにいる人との関係が近ければ近いほど強くなります。男なら誰しも、連れションをした経験があるのではないでしょうか。あれができないのです。

きっかけはありました。中学生の時、ヤンチャな友達に排尿中に小便器から引き剥がされそうになったことがありました。親の都合でしばらくしてその学校からは転校し、そのような人々とも二度と出会うことはなかったのですが、このイヤな記憶だけは頭から離れませんでした。最初はたんなる頻尿だと思いました。もよおして小便器の前に立つと、尿意が消えていきます。それから排尿できずにトイレを出てしまうと、またもや尿意に襲われるのです。自身の神経症的な性格と相まって、授業と授業の合間には必ずトイレに行かなくてはならなくなりました。

しかし病気というほどのことでもないので、しばらく放置していました。ある時一念発起し、心療内科にかかりました。はじめはユング心理学を学んだ先生の個人経営の病院でした。そこでは夢日記をつけて、自身の夢の内容から潜在意識を読み解く治療を体験しました。一見意味不明な夜の夢の意味がわかっていくのは非常に面白い体験だったのですが、筆者が貧乏学生だったこととが災いして、保険の効かないその病院の通院費が払えなくなってきました。

そこで、保険が適用できるほかの心療内科に紹介状を書いてもらい、転院することにしました。この病院は現在も通院を続けていて、投薬治療がメインとなっています。さまざまなお薬を試してみて、現在はセルトラリン錠50mg「DSEP」を服用しており、くわえて最近漢方のツムラ四逆散エキス顆粒というお薬も処方してもらっています。著者にはそこまで副作用は強くないように感じます。

心の病気は完治が難しいと言われますが、私は絶望はしていません。それは、私の場合この症状は赤の他人に対しては起こりにくいという点にあります。関係や距離が近いほどダメなんですね。大人気作家の橘玲は、以下の著作の中で、友情空間は貨幣空間によって置き換えられていくと説明しています。

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:title]p.156-159

残酷な友情空間、冷淡な貨幣空間

 2008年末、東京・日比谷公園に「年越し派遣村」が設営された。仕事を失い、住む家もない若者たちが何百人もそこに集まってきた。

 僕たちがその映像に衝撃を受けたのは、非正規労働者の悲惨な境遇とか、世界金融危機の深刻さを知ったからじゃない。ついこのあいだまでごくふつうの若者だったのに、彼らには迎えてくれる家族も、貧しさを分かち合う恋人も、援助してくれる友達もいなかったからだ。現代の貧困とは、たんに金銭的に貧しいだけではなく、愛情空間や友情空間を失い、裸のまま貨幣空間に放り出されることなのだ。

 友だちのいない世界では、愛情空間は夫婦や親子、恋人単位に最小化し、人間関係はますます濃密で複雑になっていく。ぼくたちはもともと、他人と共感し、他人から大切に扱われることに喜びを感じるようにつくられている。かつてはこうした人間関係はムラ的な共同体に分散されていたけれど、いまではごくかぎられた一人か二人にすべての感情が集中している。

 最近の小説や映画には、自分を中心とする小さな世界を微に入り細をうがって描くものがやたら多い。こうした特異な心象風景がなんの違和感もなく共有されるのは、ぼくたちがみな社会の片隅で、自分だけの小さな世界を守りながらばらばらに暮らしているからだ。

 世の良識あるひとたちは、ひととひととのつながりが薄れたことを嘆き、共同体の復権を望んでいる(最近ではこれを「新しい公共」という)。でもぼくは、こうした立場には必ずしも与しない。彼らの大好きな安心社会(ムラ社会)は、多くのひとに「安心」を提供する代わりに、時にはとても残酷な場所になるからだ。

 政治空間の権力ゲームでは、仲間(友だち)から排除されることは死を意味する。いじめが常に死を強要し(「死ね」はいじめのもうひとつの常套句だ)、いじめられっ子がしばしば実際に死を選ぶのは、人類史(というか生物史)的な圧力の凄まじさを示している。友情は、けっしてきれいごとじゃない。

 それに対して貨幣空間は「友情のない世界」だから、市場の倫理さえ遵守していれば、外見や性格や人種や出自は誰も気にしない。学校でいじめられ、絶望した子どもたちも、社会に出れば貨幣空間の中に生きる場所を与えられる(そしてしばしば成功する)。これはとても大切なことだ。僕にはいじめられた経験はないけれど、学校生活に適応できたとはとてもいえないから、心からそう思う。

 その一方で、「友情のない世界」がバラ色の未来ではないことも確かだ。そこでは自由と自己責任の原則のもとに、だれもが孤独に生きていかなくてはならない。愛情も友情も喪失し、お金まで失ってしまえば、ホームレスとなって公園の配食サービスに並ぶしかない。

 だけど、これだけは確かだ。

 ぼくたちはもう、あの懐かしい三丁目の夕日(昭和三十年代的安心社会)を見ることはない。世界はよりフラット化し、人間関係はますます希薄になり、政治空間は貨幣空間によって侵食されていく。この巨大な潮流は、誰にも止められない。

 ぼくは『20世紀少年』の登場人物たちと同い年で、1970年の万国博覧会のときは小学校五年生だった。その頃はみんなと同じように、友だちが生活のすべてだった。

 だけど大人になるにつれて、友だちはぼくの人生から消えていった。残念だけど、これは仕方のないことだ。

 愛情や友情が支配する政治空間では「お前は何者なのか」が常に問われ、集団のルールを知らなかったり、空気を読めなかったりすると仲間から排除されてしまう。みんなから認められ居場所を与えられるには、周囲に合わせて「わたし」を変えていかなくてはならない。

 それに対して貨幣空間は、ありのままの「わたし」を受け入れてくれる。愛情や友情に不器用で社会に適応できなかったひとたちも、貨幣空間ならなんの問題もなく生きていける。なぜなら、「わたし」が誰かはどうでもいいことだから。

 カルト教団の教祖となった”ともだち”は、この残酷な事実を受け入れることができなかった。だからこそ彼は、自らの手で「友だちが友だちのままで存在する」グロテスクな未来を創造したのだ。

 

20世紀少年 -第1章- 終わりの始まり

20世紀少年 -第2章- 最後の希望

20世紀少年 -最終章- ぼくらの旗