Master3’s blog

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「環境問題を解決することの意味」について考える

先日、USBのデータを整理していたら、高専時代のレポートが出てきました。

 

改めて読み返してみると、今の自分の考えともあまり変わっていなくて、割とよくまとまっていると思ったので、載せていきます。

 

工業化された農業によって地球は「大量絶滅期」に?科学者が警鐘

【記事出典】http://news.livedoor.com/article/detail/13534923/ 平成29年10月14日

【記事内容】

○序論

過去100年あまりの間に起こった工業化と人間の経済活動により、地球の環境は極めて急激な変化の過程にあると考えられています。地球の歴史の中で、これまでに大きく5回の生物の大量絶滅が起こったことが定説となっていますが、現在の人類の活動がこのまま続けば、地球は「第六の大量絶滅」に直面することになる、と警鐘を鳴らす科学者がいます。

 

○本論

テキサス大学オースチン校のラジ・パテル教授は、人類が世界各地で行っている農業の工業化に対して強い危機感を抱いています。工業化された農業では、建設機械を投入してジャングルを切り開き、森林を伐採して開墾し、油を採るためのアブラヤシや、マメなどの穀物の栽培が行われます。ここで起きる大きな環境の変化が、多様化の喪失です。森やジャングルではいくつもの植物が生い茂り、その中で多くの生物が暮らしています。しかし、全ての植物を根こそぎ取り除いてしまい、農薬と肥料を大量に投入して特定の作物だけが効率的に育つ土壌を作り上げることで、元の森が持っていた多様性は完全に失われてしまいます。

~中略~

パテル氏は「大規模な農業を行うグローバル農業が残してきた足跡は非常に大きなものです。農業の工業化は明らかに森林伐採を引き起こしていますし、単一品種生産につながっています。これが意味するところは、種の喪失です」と、近代の工業化が地球環境に悪影響を与えている点を指摘しています。

~中略~

このように、地球規模でものすごい変化が人々が意識しないうちに進んでいるわけですが、これを止めるために何をすれば良いのか、と尋ねられたパテル氏は「大きなスケールで考える必要があります」と答えています。実際のところ、この問題に個人が与える影響力は小さいと言わざるを得ませんが、選挙を通じて政府に働きかけるなどの意識の変化をひとりひとりが進めることで、次第に社会が変わっていくと考えることが重要であると説いています。パテル氏が指摘するのは「ベジタリアンだから私は大丈夫」という考えは正しくないということ。自身もベジタリアンであるというパテル氏ですが、例えば豆腐を食べたとしても、その原料の豆はひょっとしたらブラジルから来たものかも知れず、どこかでつながっていることが完全に否定することは難しいと語ります。またパテル氏は、人々の経済活動、ひいては資本主義そのものが地球の環境破壊と大量絶滅を引き起こそうとしていると警鐘を鳴らしています。

○結論

どうやら効果的な解決策を見つけることが難しそうなこの問題ですが、パテル氏は「人類は物質的な豊かさに依らない生き方を見つける必要があります」と語っています。

【調査内容】

○過去の大量絶滅期

 米科学系ニュースサイト、サイエンス・デイリーやAFP通信などによると、最初の大量絶滅期は、約4億4400万年前のオルドビス紀末に訪れ、三葉虫やサンゴ類など全生物種の85%が絶滅。2度目は約3億7400万年前のデボン紀後期で、海洋生物を中心に全生物の82%が滅んだ。3度目が約2億5100万年前のペルム紀末で、絶滅率は90%に達した。(参考[1])

 

○地球の寿命

 太陽系ができてから45億年がたったとされていますが、太陽の質量から計算すると約100億年が寿命とされています。ということは、あと55億年くらいで寿命が尽きるといわれていて、太陽は死を迎える前に地球の軌道近くまで膨張し、そしてその後はガスを拡散させて白色矮星になるといわれています。~中略~あるいは、飲み込まれなくても太陽の熱により地球上の生命は死滅してしまうと考えられます。専門家の計算によると、それが17億5000万年後に始まるとされています。なのでそのときが地球の寿命といえるでしょう。~中略~太陽が死を迎える前に膨張すると書きましたが、その理由は核融合の際に使用される水素と核融合によってつくられたヘリウムの量に関わっています。太陽はほとんどが水素とヘリウムでできていて、重力によって水素とヘリウムのガスが引っ張られて宇宙に拡散するのを防いでいます。となると逆にガスだけにどんどん引っ張られてつぶれてしまわないかと感じますが、核融合によって膨大なエネルギーを外に向けて放出しているので、これでバランスが保たれているのです。こうして太陽は今のところ膨張することなく保たれていますが、水素が尽きてしまうと中心にたまったヘリウムを覆う水素の層だけに核融合が起こり重力のバランスが崩れて膨張を始めます。太陽の場合その質量から計算して、今の200倍くらいまで膨張するといわれています。このように巨大化した恒星を赤色巨星と呼んでいます。(参考[2])

 

【考察】

 私はパテル氏の意見には賛成である。しかし、反論の文章を書こう。

 賛成する点は、壊れゆく自然にではなく、人類の生き方に目を向ける必要があるという視点である。人間が地球規模の環境を変化させうるということは自明であるが、エネルギーやポテンシャルについての法則によれば、変化には自然な(安定な方向への)変化と自然でない(不安定な方向への)変化の二種類があることがわかる。そして、不自然な方向への変化を強制しようとすれば、大きなエネルギーが必要となる。そして現在地球環境に起こっている人間にとって不都合な変化がこの自然な方向に当たるのはいうまでもない。つまり、人間が地球環境を変えるためには大変な努力が必要となるのであり、これを実現させるためには次に述べる大きな問いへの、誰もが納得できるような答えを見つけなければならない。多様性を失わないようにしなければならない、という記事の裏には、我々が地球環境と人類の未来を守るために行動すべきである、というこの調査、あるいは筆者の意図(モチベーション)が隠されているのである。私は「環境問題を解決するためには…」という議論ではなく、「環境問題を解決することの意味」について考えてみたい。

 そもそも、地球環境問題は、人類が地球上に長く存在し続けなければならないという前提の下の議論である。人類が長く繁栄することと、私たちの幸福にはいかようなる関連があるのであろうか。人類にとっての幸福が、人類が長く地球上に存在し続けることである、というのは自明の真理ではない。それでは自明の真理とは何かというと、生命の目的の一つにできるだけ長い時間を生きようとすることがある。しかし、人類という非常に巨視的な「種」というくくりにおいてもそれが同じように適用できるとは限らない。幸福という荒唐無稽なものについてここで論じても仕方がないので、人類について客観的な視点に立ってみる。

 人間には明確な天敵なども存在せず、現在生態系の頂点に存在している。生態系の頂点の生物は得てして数が少数であり、増えすぎると何らかの自然の淘汰が働き大量死することによってそのバランスを保ってきた。この淘汰の第一のものは食糧不足だろう。増えすぎた生物種に対する病原菌の発生が、一種の自然の淘汰であるという説がある。そして、同種を大量に殺戮する物理的手段を持つことは、他の生物にはない人間特有の大量死であるが、ここでは戦争の是非に対する議論はやめておく。人類はこの大量死をくいとめて数を大幅に増やした一種生態系から逸脱した不自然な存在であるということができる。人類が現在直面する環境問題もこの自然の淘汰の働きであることは、誰もが一度は考えつく一種の真理だろう。そして、記事中で大量絶滅が非常に危惧されているその理由は、単一種のみで構成された生態系というのがこの淘汰をもろに受けるために非常に脆く、危ういものであるという種の多様性の価値を、生物学者は共通に認識しているということなのであろう。

 生物の死滅が人間にどのような影響を及ぼすのであろうか。この答えとして様々な説明が考えられるだろうが、私は土地を枯らさないようにするという役割が大きいのだと考えている。地上の生物の生命活動によって、元素は地中と地上を循環している、という構図を思い浮かべてほしい。地上の生物が死滅すると、生物の体の多くの部分を構成するのに代表的な炭素分や窒素分は地上に固定されないので、例えば雨が降ったりすれば海に流れていくだろうし、最終的に大気に揮散してしまったりする。バイオマスの「炭素の固定」という概念がこれに近いかもしれない。人間が肥料をまいて農業をすればいいではないかという反論があるかもしれないが、農業は自然との共生というイメージがある人もいるかもしれない。しかし、人間によって作り出された田園風景というものは、案外土地からの略奪という側面が大きいのである。ヨーロッパの方に、土地を分割して休耕地をつくる農業形態があったが、これは人間が農作物を育てることによって土地の養分が吸い取られてしまうので、連続で植え付けると後の時期の農作物がうまく生育しないためである。このような土地からの略奪が長く続くと、養分を失った土地は砂漠化の道をたどるだろう。地球上の大陸部分は広いが、陸上生物の住めるような緑あふれる地域の割合というのはかなり限定されてくる。その限定された楽園をこれ以上狭めてはならないという意味を、私は生物多様性に見出している。

 人間と他の生物との違いが、『未来を志向できることである』という考え方があるかもしれない。たとえば、エピクロスの「死」に対する考えへの否定がある。だから人間は人類の未来についても志向するのである、と。しかし、これもまた生命の目的の「長く生きようとする」という性質を前提にしなければそもそもが成立しないのである。

 太陽の寿命についての記事を調査として掲載したが、これは地球上の生命体には限界があるということを示している。たとえば、太陽の寿命が尽きるからといって慌てだす人はいないだろう。「たった一人の人間」としての立場に立てば、地球環境問題への責任感はその果てしなさを比べれば同じだとは思えないだろうか。経済問題にたとえて言うと、日本国の抱える借金を返済するためにカンパを募るような不毛さである。

 人類すべてに対して責任を負える人間などいないということが、地球環境問題の解決が困難な理由の一つだと考えられる。しかし、そうした探求は工学の負うところではない。結論として、私の感覚的な推量として環境工学は、時間の範囲として長くて三世代ほど、そして空間として人間の利害がとどく比較的ローカルな範囲においてその意義が発揮されるだろうと予想している。

 

【参考文献】

[1] http://www.sankei.com/premium/news/150822/prm1508220010-n1.html H29.10/14

[2] http://utyuu-tanosimu.net/entry218.html H29.10/14

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