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麻薬取締官 「麻薬戦争」にアメリカが敗北しつつある シャブ中は生産性を低下させない

筆者はこの記事を書いているときは就職活動をしているのですが、筆者の親は筆者が公務員になることを要求しています。そこで、公務員になるということがどういうことなのかを考えるきっかけになる本に出会ったので、この本について紹介しています。

 

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p.14——————————————————————————————————

デスクワークではない公務員

 公務員といえば、ともすれば定時出勤・退庁という規則正しい勤務が思い浮かぶ。

 もしくは最近ではドラマや小説でも描かれて知られるようになった役所内での泊まり込みもじさない中央官庁のキャリアにみられる激務ぶりだ。

 いずれにせよ公務員といえばデスクワーク中心の仕事と思われがちである。

 だがそのどちらでもない職種もいくつか存在する。たとえば情報があれば飛んでいき調査、分析する「公安調査官」、”海の警察官”として知られる「海上保安官」、麻薬事案を専門的に取り扱い警察官同様の権限を持つ「麻薬取締官」といった職種がそれだ。

 通称・”マトリ”で知られるこれは厚生労働省に所属している。国家公務員一般職試験合格者から採用されているが薬剤師資格を持つものなど理系からの採用者も数多い。

 

「警察官の受験も考えました。でも薬学部出身で団体行動が苦手……という話をすると”マトリ”を勧められました。マトリは警察官と違い、個人で行動することが多いので。意外でしょう?」(厚生労働省麻薬取締官

 

 

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そもそも麻薬は取り締まる必要があるのだろうか。もしも覚醒剤取締法が悪法だったとすれば、それに盲目的に従っている彼らもまた悪人ということになる。このことについてもう一度よく考えてもらうために、以下の著作を引こう。

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p.99-116

 

麻薬密売人

シャブ中はなぜ犯罪者となるか

 覚醒剤(シャブ)の密売人ほど、世の中で忌み嫌われている商売はない。多量の覚醒剤は悲惨な死を招くこともある。窃盗や強盗、奴隷的な売春行為などの犯罪に結びつくことも多い。そのうえ「足を洗った」後でも、その影響は一生ついてまわる。中毒者はシャブの奴隷であり、「今日の一発」を得るためならどんな奈落にも喜んで落ちる。

 いったい、覚醒剤密売人の邪悪な本性に疑問符をつけることなど、可能なのだろうか。ましてや、彼らが好ましい人間だなんて——。だれだってそう考えるだろう。

 ところで、シャブ中が邪悪な存在として社会から非難されるのは、彼が薬物中毒になったからではなく、覚醒剤取締法に違反したためである。そこで、この法律がもたらした悲劇的な状況を検証することで、シャブの売人こそが、哀れな隣人たちを救済する唯一人の人間であることを論証してみよう。

 法による覚醒剤の禁止は、「天文学的」としか形容するほかない水準までその末端価格を引き上げる破壊的な効果を持つ。

 もしもキュウリが違法化されたらどうなるか、考えてみてほしい。種を蒔いたり、肥料をやったり、収穫したり、市場に運搬したり、販売したりする費用に加え、法から巧みに逃れるコストや、不法栽培が発覚したときに課せられる罰金の支払いも、キュウリの価格に上乗せされるに違いない。

 こうしたことは禁酒法時代の密造酒で実際に起きたが、それでも当時、付加的な費用はそれほど多額にはならなかった。なぜなら、法の執行はそれほど厳しいわけではなく、広く一般大衆の支持を得ているわけでもなかったからだ。

 一方、覚醒剤については、その付加的なコストは絶大である。覚醒剤取締法は大半の国民から支持されており、いま以上に厳格に取り締まるよう要求する声もある。ヤクザや暴走族の中にはシャブを厳禁とするところも多く、「法と秩序」を守るべく、警察官に変わって組織内の覚醒剤密売人や中毒者にリンチを加えてきた。警察官にしても、覚醒剤に対する忌避感がこれほど強いと、発覚したときの社会的制裁を恐れて、おいそれとは収賄に応じなくなる。

 ドラッグ密売の元締めは、警察官に多額の賄賂を支払うだけでなく、従業員——覚醒剤の製造や密輸、販売に従事する人たち——に対して高額の危険手当を支給しなければならない。さらには、彼らが逮捕された際には、弁護士を雇ったり、残された家族の面倒を見たりする必要も生じる。

 こうした諸要素が、覚醒剤の価格を高騰させる理由である。

 しかしこれらの付加的コストは、法によって覚醒剤を禁止したことで生じたものであり、覚醒剤自体の製造価格は風邪薬やビタミン剤とたいしてちがいはない。覚醒剤が合法化されたならば、中毒者はオロナミンC一本と同程度のコストで一発キメられるようになるにちがいない。

 覚醒剤の禁止された社会では、重度の中毒者は、少なくとも一日に一万円はシャブの購入に費やさなければならない。覚醒剤中毒者は、シャブを購入するために年間400万円ちかい大金を支払っていることになる。この多額のコストが、「人間やめますか」とまで言われる覚醒剤中毒者の悲劇的な状況を生み出している。

 一般に覚醒剤中毒者は無学な若者であり、まともな仕事では自分の習慣を維持するだけの金を稼ぐことができない。もし彼が医学的・心理学的な援助を求めないならば、残された唯一の選択肢は「一発」を確実に決めるために犯罪に手を染め、警察官に逮捕されたり、仲間からリンチされたりすることだ。

 さらに言えば、シャブ中による犯罪は、薬物依存症でないものが手がける犯罪よりもはるかに悲惨な結果を迎えやすい。中毒者でない犯罪者は、盗みをはたらくのに最も良い時と場所を選ぶことができる。しかし中毒者は、「一発」が必要になったらじっくり考えている余裕などはなく、しかもそういうときに限ってドラッグの副作用で頭が鈍くなっているのである。

「盗品売買の経済学」に照らして考えれば、一人の中毒者が彼の習慣を維持するために手当たり次第に犯罪に手を染めるのは明白である。シャブを手に入れるのに必要な年間400万円を稼ぐために、中毒者はその五倍、おおよそ2000万円の盗みをはたらかなければならない。なぜなら盗品の故売人は、小売価格の20%以下しか支払わないからだ。仮に犯罪を厭わない一万人の覚醒剤中毒者がいれば、彼らによる被害は年間で総額2000億円を超えることになる。

 こうした被害は、覚醒剤による中毒のためではなく法によって覚醒剤を禁止した結果だということは、どれほど強調してもしすぎることはない。シャブの末端価格を容易に手が届かないところまで引き上げ、中毒者たちを自分か被害者の死を持って終わりを迎えるほかない犯罪者人生に駆り立てるものこそ、覚醒剤取締法なのである。

 

麻酔剤中毒の医師

 この点を証明するために、麻酔剤中毒の医師について考えてみよう。麻酔科医を中心に、医師による麻酔剤の濫用は深刻な問題になっているが、彼らが吸引する麻薬は合法的に購入されたものであり、病院の管理部門をうまくごまかせば無料で入手することができる。この「薬物中毒」状態は、医学的には彼が糖尿病でインシュリンに依存しているのとたいしたちがいはない。いずれの「依存症」も、この医者がプロフェッショナルとして仕事をするのになんの支障もなく、事実、彼らのほとんどは優秀な医師であり、患者から慕われ、同僚からも信頼されている。

 だが、もし合法的な麻酔薬の供給が絶たれれば(あるいはインシュリンが突然、違法化されれば)、この状況は一変する。麻薬中毒の医師は路上の密売人のなすがままとなり、ドラッグの質を確かめることもできずに、必要を満たすために法外な対価を支払わされることになる。

 こうした環境のもとでは、薬物中毒の医師の人生はより厳しいものになるだろうが、しかし壊滅的というわけではない。彼らの職業は、薬物依存の習慣を維持するために必要な年間400万円の費用を比較的容易に賄うことができるからだ。しかし、それがなんの資格も経験も持たないフリーターやニートの若者たちであったらどうだろう?

 シャブの売人の役割とは、彼らがこの業界に参入してくる目論見とは裏腹に、覚醒剤の末端価格を引き下げることである。新しい売人が一人路上に立つたびに、需要と供給の法則によってシャブの販売価格は下落する。一方、警察当局による規制や取締強化によって、売人の数が一人減るごとにシャブの価格は上昇する。

 中毒者の陥る窮状や彼が手を染める犯罪は、覚醒剤の販売や濫用が理由なのではない。その原因が法的禁止の結果、シャブの価格が通常の方法では入手困難なところまで上昇したことにあるのならば、価格を引き下げるあらゆる試みは麻薬問題の緩和に寄与するだけであろう。

 シャブの密売人が覚醒剤の価格を下落させる一方で、「法と秩序を守る」と称する人々は、彼らの商売を邪魔することで末端価格を引き上げている。そう考えれば、ヒーローと目される人物は広く愛されている麻薬取締官ではなく、悪名高きシャブの売人だと気づくだろう。

 

売人は悲劇の拡大を防いでいる

 ドラッグ合法化は、「文明の進歩に反する」という理由でこれまでずっと相手にされてこなかった。「麻薬」と聞くと、人々は大英帝国が阿片を中国侵略に利用した歴史とか、正体を失って道端に倒れている中毒者の写真とかを思い浮かべる。こうして、「人類の進歩を阻む麻薬は禁止すべきである」との「正論」が声高に主張されるのであるが、ドラッグ以外にも進歩の障害となる悪弊はいろいろある。

 たとえば余暇はどうだろう。もしも従業員が一年のうち半年を休暇ですごしたら、「進歩」は間違いなく停滞するだろう。では、法律によって長期休暇を禁止すべきなのか。そんなことは不可能だろう。

 そのうえ法律によっていくら禁止しても、現実には、市民の覚醒剤への接触を断ち切ることはできない。覚醒剤はかつてはあやしげな盛り場でしか手に入らなかったが、いまでは家庭の主婦や中高生でも簡単に入手できるようになった。

 阿片戦争において、中国はイギリスの砲艦外交によって麻薬を受け入れるよう強制された。だが麻薬合法化は、個人に麻薬の使用を強制するものではない。そればかりか、覚醒剤取締法の廃止は、個人を国家による強制(麻薬を使用してはならない)から解放することなのである。

 イギリスでは麻薬中毒者の更生プログラムの一環として、医師の処方によって合法的に安価な麻薬が提供されている。その結果、中毒者の数が急増したと批判されているが、すこし考えればわかるように、これは典型的な統計の作為である。

 麻薬が違法であったときは、人々は自分が中毒者であると積極的に認めようとは思わなかった。麻薬が一部合法化され、安価に入手できるとなれば、中毒者数が増加するのは当然である。政府は認定された中毒者にのみ、ドラッグを支給するからだ。この条件で「中毒者」が増えなかったら、そのほうが驚くべきことである。

 イギリスで統計上の中毒者が増えたもうひとつの理由は、英連邦諸国からの移民の急増であろう。こうした移民が、定着の過程で一時的な問題を起こすのは十分にありうることであり、だからといってイギリスの麻薬合法化プログラムを非難するには当たらない。

 中毒者数の増加は、逆にこのプログラムの先見性や進歩性を示す十分な根拠となっている。クリスチャン・バーナード博士(心臓移植をはじめて行った南アフリカの医師)によって南アで心臓手術を望む患者が増えたとしても、心臓病患者の増加は博士のせいではない。

 覚醒剤が依存症の唯一の対象ならば、それは絶対的な悪になりうるかもしれない。そうであれば、シャブの邪悪さを広く伝えようとする努力はひたすら称賛されるべきであろう。

 しかしながら、ひとはアルコールやギャンブルやセックスなど、違法とは見なされないさまざまな依存症を患うこともある。そのなかで覚醒剤など一部の麻薬のみを対象とする禁止は、なんら有益な目的を提供しないばかりか、耐えられないほどの苦しみや大きな社会的混乱の原因になってきた。

 この悪法を維持するために警察当局は絶えず覚醒剤の価格を引き上げ、さらなる悲劇を招いている。そのなかでシャブの売人だけが、個人的なリスクを負って末端価格を引き下げることで中毒患者や犯罪被害者の生命を守り、いくばくかの悲劇を防いでいるのである。

 

*世界的には麻薬を大麻・ハシシュなどのソフトドラッグと、ヘロイン・覚醒剤などのハードドラッグに分け、前者を合法化し後者を禁止しようとする議論が主流になりつつある。1996年にソフトドラッグの個人使用を解禁したオランダにつづき、2000年代にはいるとスペイン、チェコウルグアイ、チリ、コロンビア、カナダが次々と大麻合法化に踏み切り、アメリカでは2014年のコロラド州を皮切りに、カリフォルニア州など計10州と(首都ワシントンがある)コロンビア自治区で娯楽用大麻が認められている。

 一方、ハードドラッグ解禁の過激な主張がアメリカで力を持つようになったのは、数十年に及ぶ「麻薬戦争」にアメリカが敗北しつつあることがだれの目にも明らかになってきたからだ。連邦政府の麻薬統制予算は年間200億ドルにも達するが、刑務所を満員にする以外になんの効果も発揮していない。

 ドラッグをめぐるこうした事情は、スティーブン・ソダーバーグがアカデミー監督賞を受賞した映画『トラフィック』によく描かれている。連邦政府の麻薬取締最高責任者に就任したマイケル・ダグラスが、娘のドラッグ中毒をきっかけに「麻薬戦争」の無意味さに気づき、記者会見の席上で職を辞す場面が印象的だ。(訳者註)

トラフィック (字幕版)

 

シャブ中

「シャブ中」を守れ

 覚醒剤中毒について議論する際に、「双方の話を聞け」という先人の言葉を思い出すのは良いことである。なぜならば、もしも大多数の人がなにかに反対しているなら、彼らの批判とは逆に、そこに好ましいなんらかの要素があるにちがいないからだ。人類の長い歴史において、多数派の意見はたいていの場合、間違っていた。

 もしもあなたが多数派に同意していたら、その意見に反対する者を喜んで受け入れるべきである。ジョン・スチュワート・ミル(イギリスの思想家・功利主義者)は、次のように語った。

「あなたの立場を疑いにさらし、その疑問にこたえよ」

 この方法はミルにとって非常に重要で、そのため彼は、「もしもあなたの意見を批判する者が存在しないのなら、あなた自身が批判的な立場をとり、できるかぎり説得力のあるかたちでそれを示しなさい」とまで述べている。覚醒剤を絶対的な悪だと信じる人こそ、「一発キメたっていいじゃないか」という議論に真剣に耳を傾けるべきなのだ。

「シャブ中」という現象を、その本質から検討してみよう。そのためには、覚醒剤が引き起こす社会的な問題——中毒者がシャブを手に入れるために犯罪に手を染めるというようなこと——は除外して考えなくてはならない。なぜならこうした悲劇は、国家が覚醒剤の販売を法によって禁止することから引き起こされているからだ(その理由は先に述べた)。

 覚醒剤中毒における外部的な問題を検討の対象から外すならば、中毒の本質とは、利用者に対する覚醒剤の影響そのものにほかならない。

 シャブの悪影響のトップに挙げられるのは、中毒者の寿命を短くするという批判だろう。中毒者の年齢や健康状態、専門家の立場によっても異なるが、麻薬常習者の寿命は一般の人に比べて10年から40年短くなると言われている。これは本当に不幸なことであるが、だからといって覚醒剤の使用を法で禁止すべきだという根拠にはならない。

 ある人がどのような人生を選ぼうが、その人の勝手である。楽しいことをいっぱいして太く短く生きたい人もいれば、いろんなことを我慢しても細く長く生きたいと考える人もいるだろう。生き方の選択にはどれが正しいという客観的な基準はないのだから、不合理だとか、あやしげだとかいう理由で他人の人生を非難することはできない。

 ある人は、酒、タバコ、ギャンブル、セックス、旅行、道を横断すること、議論に熱くなること、激しい運動などをあきらめても長生きしたいと考えるかもしれない。別の人は、たとえ寿命が短くなってもこれらのうちのいくつか、あるいはすべてを楽しもうと決めるかもしれない。

 薬物中毒を非難する別の有力な議論は、それが人々の責任能力を失わせるというものである。よく言われるように、覚醒剤中毒の父親は、家族に対する経済的・社会的責任を果たすことができない。ここまではわたしも同意するが、だからといって覚醒剤の使用や販売を禁止すべきだということにはやはりならない。

 なんらかのかたちで責任能力を喪失させる恐れのあるものをすべて禁止するのなら、飲酒はもとより、パチンコ・パチスロ・競馬・競艇・競輪の類いも全て法で禁止しなければならない。死んでしまえば責任の果たしようもないから、車の運転、飛行機での移動、登山やスキューバダイビングなど、潜在的な危険を有する行動もすべて禁止するべきだろう。だが、これは明らかに馬鹿げている。

 覚醒剤は自分一人の楽しみとして使用を許可し、家族に迷惑をかけるおそれがある場合には禁止すべきだろうか。そんなことはない。

 結婚をすれば、夫は妻に(妻は夫に)責任を負うことになるが、だからといって危険をともなう行為を断念することに同意したわけではない。結婚は奴隷契約ではなく、相手が不安に思うことをする自由を妨げるものでもない。テニスによる心臓発作を心配した妻が、「夫がテニスに行くのを法で禁止してほしい」と言い出したら、あなたはなんとこたえるだろうか。

 

シャブ中は生産性を低下させない

 覚醒剤に反対するまた別の議論は、「中毒者はまったくの役立たずだから、シャブ中が増えれば経済成長率が低下し、国が貧しくなる」というものだ。この議論が正しければ、覚醒剤中毒は国益を害することになる。

 この議論は、国の豊かさを覚醒剤中毒よりも有意義なものとみなしているため、一見もっともらしく思える。だが実際は、経済成長の定義からしてきわめて疑わしい。

 彼らは経済成長、すなわちGDP国内総生産)の拡大こそが豊かさなのだと主張する。だが肝心のGDPの内訳をのぞいてみると、たとえばその10パーセント程度が政府による支出であるが(日本の場合、国債発行などによる借金によって、国と地方を合わせた財政支出GDPの約30パーセント)、それが私たちの豊かさにどの程度貢献しているのだろうか。その一方でGDPは、家庭における主婦の役割を経済指標として取り入れることができない。

 さらに言うならば、経済成長論者は経済におけるレジャーの役割を完全に誤解している。「豊かさ」と言う場合、だれもが余暇になんらかの価値を見出すだろう。だが豊かさの指標であるはずのGDPは、これをいっさい評価しない。

 たとえば、ある素晴らしい発明によって生産性が二倍に向上したとしよう。人々がこれまでと同じだけはたらけば、当然、GDPも二倍になる。その一方で、人々がこの偉大な発明をこれまでの生活水準を維持するために使い、労働時間を半分(すなわち余暇を二倍)にしたならば、GDPは変わらないから、統計上は、人々はまったく豊かになっていないことになるのだ。

 覚醒剤中毒者が生産性の低下、すなわち経済成長の鈍化につながるとすれば、同様に労働時間を減らすすべての行為が経済成長を減速させ、国を貧しくするはずだ。そうすると、経済成長を理由に覚醒剤に反対する人々は、夏のバカンスや、禅寺での瞑想や、森のなかの散歩にも反対しなければならず、この禁止リストは際限ないものになるだろう。

 余暇を増やすことでより豊かな生活を送る、というのはどこも間違っていない。その結果GDPが縮小して国が貧しくなるというのなら、そもそもGDPが豊かさを計る指標として意味をなさないのである。

 さらにつけ加えるならば、薬物中毒が生産性を低下させるというのは、必ずしも事実ではない。

 シャブ中の行動に関するわれわれの知識は、ほとんどの場合、一発キメるための金を求めて社会の最底辺を這いずり回る人々から得ている。たしかに薬物中毒者の大部分を占める彼らは、正規の仕事につくこともできず、シャブをキメている以外の時間のほとんどは盗みや殺人や売春に費やされている。だがこれまで繰り返し述べたように、シャブ中のこうした行動は法の規則によって末端価格が天文学的水準にまで跳ね上がったためであり、薬物中毒者の生産性を議論するには適当ではない。

 薬物中毒が経済に与える影響を計測するには、ドラッグの供給を法によって禁じられていない数すくない幸運な中毒者たちの行動を観察してみなければならない。

 このグループは、安定したドラッグの供給のために自ら処方箋を書くことのできる薬物依存症の医師から構成されている。サンプル数はすくないのだが、たとえばモルヒネ(ケシから生成されるヘロインの原材料)に依存した医師の場合、そのほとんどが生産的な生活を維持し、ほかの医師たちと同様に患者に対して十分なサービスを提供しているとの調査結果がある。これらの調査が共通に示していることだが、薬物依存症の医師たちは専門分野の最新の研究成果をフォローし、患者と適切な関係を保ち、すべての面において他の治療者となんら遜色のない仕事をしていたのだ。

 覚醒剤が合法化されたとしても、シャブ中たちが個人的な様々なトラブルを起こしつづけることは間違いない。ドラッグが再び禁止されるのではないかとの恐怖に苛まれることもあるだろうし、薬物接種後のひどいうつ状態に悩まされることもあるだろう。ドラッグ合法化後は医師の管理によって大幅に改善するとしても、過剰摂取による死の危険も依然として残るにちがいない。

 だが重要なのは、「覚醒剤を合法化してもトラブルはなくならない」ということではない。なにをするにせよ、人はいずれ問題を抱え込むことになる。

 覚醒剤中毒は、それ自体が悪なのではない。もしも覚醒剤が合法化されれば、酒やタバコと同様に使用者自身の健康を害することはあっても、他者に危害を加えることはなくなる。

 ドラッグに反対し、薬物の危険を教育し、新聞やテレビで「人間やめますか」と宣伝する人たちをわたしは否定しない。それは彼らの言論の自由だ。しかし覚醒剤を法で禁止することは、シャブを打ちたいと願う個人の権利を明らかに侵害しているのである。

悪法の弊害としてアメリカの禁酒法が登場した。これは岡田斗司夫ゼミでも解説されている。

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我々のうちほとんどの人間は、正しい歴史にアクセスすることが無く一生を終えていく。ここで、アヘン戦争についてもう一度見直してみたい。

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