Master3’s blog

LaTeXやExcelVBAなどの作例集

技術の未熟さが、その運用自体を止めてしまう理由にはならないんじゃないか

先日、メモ用紙として使っている裏紙を整理していたら、学部時代のレポートの原稿が出てきました。

 改めて読み返してみると、今の自分の考えともあまり変わっていなくて、割とよくまとまっていると思ったので、捨てるのももったいなくなってきました。

 なので、保存用としてこのブログに書いてみようと思います。

 読んでくださった皆さんの中で何か思うところがある方は、コメントしていただけるとありがたいです。

 何かの本か記事を参考にしている部分があったと思うのですが、すっかりわからなくなってしまっているので、ご存じの方がいればご教授くださいますと幸いです。

 

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 化石燃料放射線燃料も枯渇が予想されているエネルギー源であるので、自主的に止めなくても終わりは来るのだから、止める必要はないと考える。例えると、生きるのがつらいから自殺しようというのではなく、どうせ死は訪れるのだからそれまでは生きてみようというのである。ほかのエネルギー源を頼るべきという意見にどれだけ耳を傾けるかという選択は、各発電のリスク――ベネフィット比較は人によって全く異なってしまう価値観の水掛け論になってしまうわけだから、最大多数の納得が得られるようにコンセンサスを政治的に決定すればいいだけの話である。

 生物の最も自然なありかたである競争原理に基づけば、総合的に最もコストの安い発電方法を選択すべきことは自明であり、現在は問題点の多い原子力発電であっても開発を続けることによって安全性の向上が実現できたり、廃棄物を地下や宇宙に排出できるような技術革新が起こり、その発明によって世界に対して優位性を持つことができるようになるかもしれない。しかしこれも、「宝くじが当たるかもしれない」といったような類の楽観的予想であって、先に記したような水掛け論を脱してはいない。

 私の考えとしては、価値観の違う人間同士が分かりあうことなどできないということを受け入れることが必要だと考えている。つまり、無理やり全体で一つの結論を出す必要はないのではないか。これに類似した例は分煙があると思う。煙草に何らかの必要性があるかどうかはわからないが、吸う人間と吸わない人間の価値観を両方認めることができるのである。原発に関しても、補助金を得て財政を維持する青森市と、発電所と処理施設を建設したい国の意図とが合致しているし、放射線を浴びてでも高給を求める人への雇用が成立し、放射能を嫌う人は原発の近くに住まなければよいだけの話であり、社会としてのバランス(整合性)は成り立っているのである。しかし、現在生じている様々な問題(不整合)は、原子力発電システムそのものの破綻ではなくて、発電システムと社会システムとの不調和によるものであると私は考えているので、私は原子力発電には賛成の立場である(あくまでコスト面で最も優れた発電方法であると考えるならばの話である)。不整合の例として、3.11の時に福島で人々が被ばくしてしまったことがあげられる。このことの問題点は、おそらく多くの人が、原発のリスクを知らずに原発の(被曝するほど)近くに暮らしていたということである。要するに、リスクに見合っただけの利益などを受け取れずに「理不尽に」被曝してしまったことである。これは、原発自体のリスクが大きすぎたための問題というよりもむしろ、補助金や説明不足などといった社会システムの不整合だといえるのではないだろうか。

 また、次の例として原発作業員という職業がある。危険な作業をする代わりに高額な給与がうたわれ、ホームレスや社会の底辺のやくざ者たちに新たな雇用を与えたが、理不尽な重層的下請け構造が形成されてピンハネされてしまう人が後を絶たなかった。この問題が発生した原因は、大事故により突然出現したこの雇用に対してパニックの渦中の人々はこの問題に対応することができず、法の整備が行き届かなかったことではないだろうか。これも明らかに社会システムの問題である。

 このように、どれだけ危険であろうとも爆心地に向かう人々がいる。それは、人々にはそれぞれ違った「事情」があるためである。よって私は、危険があるからという理由で原発に反対する論は机上の空論だと思う。

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以上です。この授業は、原子力発電システムがいかに未完成の技術であるかといったような内容だった気がします。このような授業を聞いて、技術の未熟さが、その運用自体を止めてしまう理由にはならないんじゃないかなと思ったので、このようなレポートを書いたのだと思います。社会システムというものも、運用しているのが生身の人間である限り完ぺきというものはないと思います。自然界の中における生物の、生存のための道具であった「不安」という感情。非現実的な「100%安全」という幻想に我々を駆り立てるのは、この「不安」が暴走した姿なのかもしれないと思います。この不安を手放すことができるテクノロジーが実現する未来が、はやくくるといいな~

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